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§浜の女たちと米騒動
女性史研究家・富山大学非常勤講師
浅生 幸子
§技術相談問答のよもやま話(3)
独立行政法人 農業技術研究機構
野菜茶業研究所 研究技術情報官
農学博士 中島 武彦
§肥料と切手よもやま話(1)
越野 正義
女性史研究家・富山大学非常勤講師
浅生 幸子
かつて,米が人々の命の綱だった時代があった。米の値段をコントロール出来なかったために,人々が暴動化し,総辞職せざるをえなかった内閣があった。その大暴動のきっかけを作ったのが,富山県の浜の女たちだった。時の内閣を倒すという歴史に残る大事件だったにもかかわらず,当事者たちにそんな大それた思いはなかった。生きるために家族の食料を調達するという,任務に忠実だった女たちの真っ直ぐな行動にすぎなかったのだから。
真夏を思わせるような暑い日になった2002年5月のある日,私は,騒動の女たちの息づかいを聞きたくて,発生の地富山県魚津市の浜を歩いてみた。海は,凪で静かだった。名物の蜃気楼は,発生率が40%ということだったが,平日ということもあってか,人通りは少なかった。
かつて十二銀行の倉庫として使用されていた建物は,水産会社として今も使われ,当時の面影をそのまま残している。その海岸側の板壁に,今は魚津市教育委員会によって,「米騒動発生の地」という説明が書かれた看板が架けられている。その隣には,当時の目撃者の証言によって描かれた米倉庫,騒動の人々の位置関係の絵図もある。さらに海岸よりには,かつて木柱であったが1998年,米騒動80年を記念して石柱に代えられた「発祥の地」と書かれた記念碑もあった。



海岸には,高い堤防が築かれ,冬の寄り回り波を防ぐテトラポットが沈められて当時の面影はなかったが,路地を抜けて町中に入ると,間口の広さは,当時とさして変わっていないと思われる家々が,通りに面して,肩を寄せ合うように立ち並んでいた。同じ町でも国道8号線を越えて南に広がる農村地帯とは,全く風景を異にしている。これだけ狭かったら,夫婦げんかも晩飯のおかずも,隣近所つつ抜けになるのも無理はない。互いに米びつの中まで,日々の暮らし向きが,わかっていたことだろう。昼下がり,どこからともなく風呂桶にタオルを持った男たちが,歩いてきた。路地の先の銭湯に行くらしい。かつての漁師町の銭湯が,そのまま残っているのだろうか。「おかかー,出んか。出んか。」という呼び声が,今にも聞こえてきそうなたたずまいが,時代を超えてそこには残っていた。

大正7年(1918年)の夏は,ことのほか暑い日が続いた。一方,浜は近年にない不漁続きだった。そんな浜の町で,おかかたちの頭を悩ませていたのは,天井知らずの米の値上がりだった。年初めに一升24銭だったのが,6月末には30銭,7月半ばには35銭になり,下がる気配はなかった。
大正7年になってから,全国的に米価は前年の5割増にはねあがった。2年続きの豊作にもかかわらず。その主たる原因は,大手米穀商や地主層による投機的買占め,売り惜しみにあった。県内にも,1000石以上の保有米を倉庫に積んでいる地主兼米穀商がいた。これに対し,政府は,何ら有効な手立てを実行しないばかりか,シベリア出兵の計画を流布させて,商人たちの投機熱を高めた。その結果,ますます米価は高騰した。
当時,男の労働者の平均賃金は,一日50銭,女の内職や日当では,一升の米も買えなかった。海の男たちは,漁に出る日は,一日一升二合の米を食べるといわれ,そのエネルギー源の大半が,米であった。ただでさえ,漁師町では,7月,8月は,鍋に何も入れるものがなく,それを火にかけると鍋がわれてしまうことになぞらえて「鍋割月」と呼ばれているほどであった。深刻な生活難,食料難が広がっていた。
一方,米は豊作で,北海道を中心に多くの米が県外に運ばれていた。魚津港は県東部最大の米の積み出し港で,他に岩瀬,水橋,滑川,石田浜からも運び出されていた。水が貴重な時代,米を研ぐのも野菜を洗うのも,女たちは,共同井戸でやっていた。集まると自然に,米の話題になったことだろう。「米が高くてこまっとるがいね!」「あんたとこも!」「おらとこもやで!」「わしら食べれんがに,米よそへやっとるがいね!」「ジョーキが来るたび米が高くなる!」毎日のようにこんな会話が,繰り返されたのではないだろうか。
7月22日の夕方,「今度ジョーキが来たら,みんなで米出さんように,男どもに頼まんまいけ」寄り合いでようやく女たちの気持ちがまとまった。仲仕の男たちも,みんな女房たちの顔見知りだった。翌23日早朝,北海道ヘ米を運ぶ伊吹丸が沖に姿を見せた。女たちは,「おかかでんまいけ!」「今日こそ米を積ませんようにせんまいけ」と浜に集まった。その数およそ50人。女たちは,米を運ぶ男仲仕たちの着物のすそをつかんだり,米俵につかまって運ぶのを阻止する直接行動に出た。仲仕たちは,女たちのあまりの剣幕に,積み出しを中止した。伊吹丸も,その日の荷積みをあきらめて出港した。さらに,以前から女たちの不穏な空気を感じ取っていた警察も来たので,女たちもいったんは解散した。

しかしその夜,再び百数十人の女たちが,何隊かに分かれ米穀商に押しかけ,米を移出しないように訴えた。決して暴力的ではなかったが,生活を背負った者の切羽詰まった抗議には,迫力と底力があった。これが全国を揺るがした米騒動の発端だった。
魚津では,町役場が米の廉売補助など救済方法を示して,騒動は鎮静化しつつあったが,27日,28日と東岩瀬町で,8月2日には泊町で女たちが役場や素封家に嘆願に出かける動きがあった。そして,ついに3日西水橋で漁師の女房たち150人ほどが,米問屋や町の有志宅を訪ね,米を移出しないこと,米の廉売をすることを要求する集団行動が起きた。魚津から見ると,地理的には東から滑川,東水橋と来て白岩川をはさんで西水橋だ。西水橋の女たちが,魚津の騒動を知っていたとは思えない。新聞など読む機会のない女たちであった。この時期,どこで起きても不思議ではない深刻な状況にあったのだ。
白岩川を挟み,東西橋で結ばれていた東水橋では,翌4日夜7時頃,女たち700人ほどが浜に集まり,町長,議員,米屋へと分かれて嘆願に行った。この騒動の中心になったのは,女仲仕たち。
水橋の浜では,魚津,滑川と違って,女も仲仕として働いていた。男仲仕が主に米を運び,女はまきや炭を運んだ。男は,一日50銭から1円稼いだが,女は30銭から50銭にしかならなかった。女仲仕たちの団結力は強く,仲仕の元締め水上ノブの号令ひとつで立ちあがったと言われている。女たちは,ノブを中心に神社の境内や浜で女房会議を開いて,作戦を練って組織的に行動した。
水上ノブは,当時60歳前後。「水上のおばば」と呼ばれ,親分肌で仕事のとりまとめがうまく,世話好きで統率力があったという。ノブは,最初,男仲仕の協力も必要と考え,男仲仕の世話役にも争議に出るよう頼みに行ったが,「男の出る幕ではない」と断られ,女だけで行動を起こした。
一方,5日から動きが起きた滑川では,他の地域と違って米の移出中止に応じようとしない商人が多かったため,騒動が大きくなった。さらに6日に,沖に伊吹丸が停泊したため,米価に影響力があった金川商屈の倉庫前には,男たちも加わった2000人もの群衆が集まった。口々に大声で,「悪代官」「悪徳商人」などとののしった。浜の米集積所では,さらにすさまじく,米俵にしがみついたり,赤ん坊をせおったままハシケの下にもぐりこんで,体を張って米を舟に乗せないようにした。
この時,騒動の中心になったのは,川村サト,川村ツル,萩原サトなど漁師の女房たちで,男が加わっても主導権をとる事はなかった。食べ物の話しや台所の窮乏は,女の問題で,男の出る幕ではなかったのである。毎晩,「おかか行かっしゃらんか,行かっしゃらんか」の呼び声で,隣近所いっせいに騒動に加わった。中には,つまはじきにされんようにと,連れ立って出た者もいた。しかし,さしもの滑川の騒動も,外米の廉売などの救済策が打ち出されたことから,8日には収束した。
この後,県内では,富山市,石動町,三日市町,八尾町,上市町などでも起きるが,10月4日の宮崎村で終わりを告げた。

マスコミは,第4の権力だと言われる。情報網が発達すればするほど,その影響力を強め,意図するしないにかかわらず,人々の意識を左右する。米騒動が,全国ヘ拡大し激化するにあたって,明治末に大衆化し,発行部数を増加させていた新聞の果たした役割には,非常に大きいものがあった。
富山県内で起きていた騒動が全国に波及したのは,8月8日の岡山県が最初で,10日の京都と名古屋の騒動でいっきに全国1道3府38県に広がった。その内22県で騒動が暴動化し軍隊が出動する大規模なものになった。騒動に参加した富山の漁村の女房たちは,貧しくて新聞を読む習慣もなく,自分たちの行動が,全国に大きな影響を与えたことなど,あとあとまで知らなかった。
富山日報7月24日号「窮乏する漁民=大挙役場に迫らんとす」,北陸タイムス7月25日号「一揆米屋を襲う」をはじめ「米は積ませぬ」「女房連の示威運動」「女群押し寄せる」などの見出しが,暴動,嘆願,殺気,不穏などの言葉とともに紙面を飾った。とりわけ8月3日の西水橋の騒動を,高岡新報が「女群米屋に薄る」というセンセーショナルな見出しで全国に報道したことが,大きな影響を与えた。大阪朝日新聞,大阪毎日新聞などは,これらを「高岡電話」「高岡来電」として連日報道した。京都日出新聞は,「越中には女たちの気概があふれている。しかるに京都の男たちは・・・・」と男のふがいなさを嘆いた。

貧しい漁村の女房たちが,女だけで行動に打って出たという報道は,「越中の女一揆」として,全国に大きなインパクトを与え,鬱積していた社会不安に火を付けた。
大正7年の米騒動は,富山県内19市町村で40件以上発生し,騒動参加者も全国に与えた影響力も最大である。しかし,明治以降,米騒動と言われる民衆の行動は,警察調査に限っても44回ある。この内,女だけによるものが22回,男だけのものが13回,男女によるもの5回,不詳4回である。とりわけ,明治23年,30年,45年の騒動は,大規模で県東部の中新川,下新川地帯は,米騒動多発地帯であった。米が高くなれば,女たちが,大挙して役場や米穀商に押しかけて,生活の窮状を訴え,それを受けた役場が救済措置を講じて収めるのが,常であった。だから,浜の女たちにとって,母親や姑たちから受け継いだ生活防衛手段の一つが,集団での嘆願行動だと見ることもできる。

「男は外で働き,女が台所を守る」という強い性別分業意識の下,限られた収入の中でやりくりをし,家族にひもじLし思いをさせないのは,「女の甲斐性」だった。だから,米のことで,女が騒ぐのは当然のことであり,男の出る幕ではなかったのである。強いジェンダ一意識に裏打ちされた漁村の女たちの行動が,「か弱い女たちが立ち上がったのだから,よほどのことだろう」という,これまた強いジェンダ一意識にとらわれた都市部の男たちを騒動に立ちあがらせたのである。
浜の女たちが,ジェンダ一意識にとらわれているからと言って,その勇気ある行動,果たした役割,歴史的意義は,決して低められるものではない。しかも,今回の米騒動が,それまでのものと違うのは,何人かの指揮者がいて隊列を組み,状況に見合った行動を2日から3日間やったことである。一回なら,自然発生的と見なすこともできるが,取りまとめ役がいなかったら,運動を継続させることはできない。さらに,滑川町が,戸数割(税金)三分以下の世帯を救済すると発表した時,「救済ではなく,米の安売りを求めているのだ」と女房たちは納得しなかった。この背景には,明治の騒動に比べ,社会的経験を積んだ地域の女性リーダーの存在があったからだと言える。
●『証言米騒動』1974年刊 北日本新聞社編
●『ビジュアル富山百科』1994年刊 富山新聞社編
●『富山県女性史』1987年刊 高井進編
●『魚津の米騒動』資料集 1999年刊 魚津市教育委員会
独立行政法人 農業技術研究機構
野菜茶業研究所 研究技術情報官
農学博士 中島 武彦
マスコミの多くは夕刻に電話をかけてくる。いつもせっかちで,対応が遅れたりすると途端に機嫌が悪くなる。古い話になるが,ある試験場に身分を明かさない人から問い合わせがあった。とても横柄な口調で,同じ質問を繰り返すので,対応した研究者はうんざりして適当にあしらおうと同じ口調で応えた刹那,相手は待ってましたとばかり『俺は○×新聞の記者だ。公務員が高飛車な態度で答えたと記事にしてやる』と豹変し,対応者はそれをもみ消すために平謝りしたという苦労話が残されている。
情報官の技術相談は開設以来,いかなる質問にも丁重に接しているので,こんな事態はまったく無かったが,3年ほど前に農水省の方針とかでマスコミ対応はどの試験場も図書部門で担当することになった。当所もこれに倣ってマスコミからの電話は図書部門とし,電話交換係にテレビ局とか新聞社と名のると,例え技術相談であっても即座にそちらに繋がれるのである。お陰で窓口業務が軽減されてホッとしていたが,図書部門は研究所の専門家を紹介する一中継点に過ぎず,情報入手までに時間がかかる,明解な回答が得られないこともあってか,最近は電話交換係に情報官を名指ししたり,直通電話をかけてきたりしている。
報道の直前に問い合わせてくる場合は一方的にまくし立てられてベテラン?の情報官もタジタジとなることがある。『茨城でトマトの有機栽培農家を取材した。株もとに短い触毛が密生し,蟻が触毛に挟まって死んでいた。農家はトマトが食虫植物に変身したと話しているが,本当にそうなるのか?』もその1例であろう。専門書を見ても,触毛は表皮から出ている毛じと書かれているだけであり,死んだ虫から栄養分を摂取した事例は見っからなかった。
一方,毛じが多く発生する理由をナス科育種研究室に尋ねたところ「栽培種は野生種より毛じの発生数は少ないが,栽培環境の悪化で根が弱った場合や根の酸素吸収が抑制される場合に増える」を得た。この情報とこれまでの知見を組み合わせ,『有機物を多量に投入すると炭酸ガス等が土中に充満し,根の酸素吸収が抑えられると毛じが多く発生します。また,有機物投入で蟻の巣が壊され,酸素不足も影響して蟻はトマトなどに避難し,一部は餓死したのかも知れません』と歯切れの悪い回答をしてしまった。
この回答の数日後に東京ヘ出張した折,それと思われるテレビ番組を見た。そこでは農家が「有機物を土中深く投入しているので,トマトは旺盛に生長し,収量も多かった。株元には触毛が多く発生し,この触毛に沢山の蟻が挟まって干からびているので,トマトが食虫植物になったように見える」と話していた。あれから半年ほどが経過し,「毛じの粘質物に足を捕られた」,「トマチン*中毒で死んだ」などを推察してみたが,情報不足で今も未解決のままである。知っている人がいれば情報を提供していただきたいと願っている。
難問や奇問も多く寄せられている。例えば,「トマトの水耕栽培で音楽を聴かせている農家がいる。聴かせると生育は旺盛となり,収量や品質も高まると農家は信じている」という質問に対し,回答も奇抜であった。『家畜は暑ければ涼しい所に移動し,危険が迫れば安全な場所に逃げたり,泣きわめいたりします。一方,トマトは過酷な環境に黙って耐え,耐えられなければ萎れて枯れます。回答の方向を音楽を聴いている,と音楽なんか聴いていないに区分したほうが理解しやすいでしょう。
前者は,光の電磁波と音波は性質が異なるものの振動波なので,トマトが生産者の好きな音楽を聴くたびに育ての親が傍で見守っていてくれるものと錯覚し,高収量になったという結論に至ります。後者の音楽を聴いていない,または音波を感知しても理解できない説は鰯の頭も信心からの諺があるように,生産者は音楽によって生育が良くなるものと信じ,音楽を聴かせているハウスに入り浸って,暑く感じれば開き戸や側窓を開け,見栄えを良くするために病葉を摘んだり,支柱に誘引したりしますが,音楽を聴かせていないハウスは粗放な管理となり,戸や側窓の開閉,誘引や摘葉などが常に後回しとなり,この差別が聴かせていないハウスで病虫害を増やしたり,かん水が遅れたりして生育や収量が目だって劣ったのでしょう』と情報官独特の思想を披露した。
トマトに音楽を聴かせる情報は視聴者へのインパクトが強く,回答も奇抜であったために東海地域のニュースにとりあげられることになった。「ついては専門家としてのコメントを収録したいので,スタッフを即刻向かわせたい」とテレビ局から申し出があった。気軽に了承したところ,名古屋から2時間ほどで取材陣が到着し,10分ほど収録するとトンボ返りで帰っていった。その日の夕刻,音信の無かった同級生から「テレビのニュースに出ているのを見たヨ。元気そうだネ」と電話があった。遠距離通勤の情報官はその番組は見られなかったが,懐かしい声が聞けて大満足であった。その後も「イチゴにビールを散布すると生育や収量に効果があると農家が話しているが?」という質問も寄せられているが,いつもこの調子で応えることにしている。
なお,テレビや新聞に取材を申し込まれた場合は担当部局に内容,取材機関等を広報連絡表によって提出しなければならないが,必要項目を記入するだけであり,難問に対する回答までの作業から見れば煩わしさはまったくない。
上記の奇抜な回答は体験から生み出されている。昭和58年(技術相談を担当する13年前)に北海道のラジオ局から「ジョギング好きのレタス農家が1棟のハウスの周囲だけ雪の日も欠かさず走っていたら,そのハウスだけ生育旺盛となり,2割も増収したと聞いたが,その理由は?」という問い合わせがタライ回しされてきたことに始まる。『犬は足音で主人を識別するので,レタスも認識したかも知れないが,実はジョギングの合間にそのハウスだけこまめに管理していたからでしょう』と回答した。当時は回答に自信が持てなかったので,ポリ鉢のレタス苗をバイブレータ(金魚用エアーポンプ)に載せて実証試験を行ったりした。タイマーで稼動の時間や回数を変えたが,生育はいずれも劣る傾向が見られ,寡日照期の間欠補光のような増収効果は期待できないことがわかった。ただし,バイブレータの振動と生産者の足音とは性質が大きく異なるので,生産者の足音を否定するには至っていない。
次に,トマト苗が育ての親を認識するかについて調査したことがある。これは雛鳥が餌を与える動物を親と誤認することに起因する。「桃太郎」を10センチ角のロックウールキューブに播種し,子葉が展開した時期に4名の栽培者に60株ずつ分配し,各自が分配された苗を同じ環境下で培養液を与えるだけである。土曜と日曜の2日間は栽培管理はまったくせず,金曜の夕刻にすべてのキューブを浅底の水槽に等間隔に並べて培養液を吸収できるようにした。3週間後に草丈や葉の大きさ,茎葉の乾物重を各12株について測定した結果,早朝から夕方までこまめに管理した情報官の苗が最も生育は旺盛で,次いで午後3時半まで管理したパートタイマー,午前中は受講で管理できない養成研修生,月水金曜だけ管理する農場の作業員(不在日はパートが管理)の順となった。
この調査後,48株を4区に分けて1区は手元に残し,3区は栽培者間で苗を交換した。なお,情報官は半月ほど中国大陸に出張することとなり,出張中は他の栽培者が交互に管理した。試験開始6週間目に調査したところ,いずれも手元に残した苗は交換した苗より生育がわずかながら勝ること,情報官の苗はどの区も1割ほど劣ることが認められた。これらはトマトがあたかも育ての親を認識しているような結果であり,再試験する手はずを整えたが,中国大陸への長期派遣(2年間)によって果たされていない。
サボテンと会話するとか,樹木の健康状態を診断する専門家もおられるという。高等植物は微少な動物よりはるかに多くの細胞や複雑な組織を有するので,心情的には音楽を聴いている,育ての親を知っているに軍配を挙げたいのだが。
これも昔話である。ある企業から野菜を大きくする器具が当試験場に届けられた。この企業は普及に意欲的で,搬入直後に販売の責任者が来場し,『これはドイツ特許の優秀賞に輝いたかん水装置です。炭酸水をかけ続けると土壌に吸着されていた栄養分が溶け出してきて,それを吸収した野菜類が2倍の大きさになるというものです』と盛んに宣伝して帰っていった。早速,実証試験の運びになったが,共同研究の担当者が異動したとかでお鉢が回されてきた。
ガラス室に植木鉢を並べ,キャベツやレタスを播種した後に例のかん水装置を水道の蛇口ヘセットした。通水中に炭酸ガスボンベを開くと器具の内部で細かい気泡が渦巻き状に噴き出すだけのシンプルな構造であった。かん水ノズルから出てくる水を飲むとラムネの味がした。この炭酸水と水道水を同じ量だけ2ヶ月もかけ比べたが,販売の責任者が期待したような生育差は認められないままに実証試験が終了してしまった。実は実証試験の途中で「我が国では生育差は出ないだろうナ」と勝手に判断していた。
それは,我が国の畑土は酸性に傾いており,雨の少ないドイツではアルカリ土壌も存在し,そんな土壌へのかん水ならば炭酸水によって中和されると判断したからである。中和によって土壌中の養分が溶出しやすくなり,それを吸収した野菜が生育倍増することは容易に想像できるのである。
実証試験の結果と情報官の意見が先方に伝えられると,その数日後には運送業者がかん水装置をサッサと引き取っていった。風の便りに,別の試験場(公立)にも同じような調査を依頼し,そこで「野菜の生育が旺盛になる」とのお墨付きを得たという情報が流れてきた。あれから十数年の月日が流れ,ドイツ特許の優秀賞は我が国でどのような活躍をしているか知りたいと願っている。
*トマチン:毒性の強いアルカロイドである。これの解毒酵素を持たないミナミキイロアザミウマは飛来しないとの情報を得ている。アブラムシを利用する日本の蟻に解毒酵素がないのならトマチン中毒で死ぬこともありうる。ただし,ブラジルの葉切り蟻はセル育苗し,定植したばかりのトマト葉を切り刻んで巣穴に持ち込んでいた。
越野 正義
10年ほど前,あるシンポジウムで講演スライドの背景に肥料の切手を入れたことがある。切手の話はしなかったが,それでも終わった後,「仕事と趣味を一緒にしてはいけないョ」と,からかわれた。でも引退した今なら,良いだろうとこのカラムを書くことにした。
第1回は中国の化学肥料キャンペーンの切手である。合成繊維,ゴムなどとともに化学工業発展のシリーズとして発行された。農薬も一枚になっている。肥料の切手の背景はアンモニア合成の圧縮機であろう。人の良さそうな農夫が微笑ましい。

中国には農業と食糧増産の切手が比較的多い。13億からの人口を養うためには膨大な食糧が必要であり,さらに食生活の高度化・多様化により肉類の消費が増えているため,将来的に穀類などの不足が懸念されている。穀物などはすでに輸入国になっているが,それでも現在の穀物自給率は98%(1998年)であり,日本の27%(99年)よりはずっとましである。中国政府としての食糧増産計画もあるが,果たして20年後にどうなっているかが問題である。野菜の輸出が話題になっているが,これは外貨獲得の手段であり,同じように穀物生産が増えるとは限らない。辺地まで無理に増産して砂漠化を促進している例もある。
食糧増産にはまず肥料である。中国は今や最大の肥料消費国であり,窒素だけでも2500万トン,日本の約50倍を使っている。アンモニアの生産においてもアメリカを抜いてすでに世界ーである。
(財 日本肥糧検定協会 参与)